東海道バーチャルトリップ

25)隷書東海道赤坂広重タイルと赤坂代官所(陣屋)立札/跡地:順路の先、左奥、道路西奥

立札の左手前の排水路の脇(写真外)に、同タイルが置かれています。隷書東海道には、赤坂宿を行交う旅人達が描かれています。また立札には、説明文と陣屋之図が描かれています。説明文には、
天正三年(一六八三)、代官国領半兵衛重次のとき、赤坂の大藪地内(よらまい館東)に代官所が設置され、三河国内の幕府領の大半を赤坂代官が支配するようになった。
元禄二年(一六八九)、正法寺と浄泉寺の間(元赤坂保育園)に移され、寛政十二年(一八〇〇)からは代官所の統合により、遠江国中泉(静岡県磐田市)代官所配下の赤坂出張陣屋となった。
東海道から代官所への出入りは、元禄二年の陣屋之図によると西側に門があるので、当初は正法寺参道を利用していたと思われる。豊橋市教育委員会、とあります。

26)大橋屋(旧旅籠鯉屋)と脇本陣(輪違屋)高札と代官所への通路/跡地:大橋屋の先、左手、道路西側

高札の左側には跡地の順路(つまりは、元代官所への通路)が有りますが、先のタイルや立札はこの先の突当りに在ります。

高札には説明文と、中央下に大橋屋周辺の町並図、左上に歌川広重「東海道五十三次隷書東海道赤坂」版画、左下に大橋屋のご利用案内が記されています。町並図には赤坂宿町並図(1865年)より作成とあり、
現在地、脇本陣、清水市三郎、輪違屋、陣屋門前、伊右エ門、鯉屋、旅人宿?、とあります。隷書東海道は、先の通りです。また説明文には、
大橋屋の江戸時代の屋号は「鯉屋」といい、一般の旅人が宿泊する旅籠屋を営んでいた。現存する主屋は文化六年(一八〇九)の赤坂宿の大火以降に建てられたと考えられている。
大橋屋に残されていた間取り図によると、間口が狭く奥行の長い宿場町特有の敷地に、主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が並んで建っていた。江戸時代の後期になると庶民も社寺参詣や物見遊山の旅に出かけるようになり、
鯉屋にも多くの旅人が宿泊したと思われる。明治以降も旅籠屋を続け、旅人が安心して利用できる旅宿組合の一つである一新講の定宿になっていた。明治十一年(一八七八)の東海北陸巡幸のときには、明治天皇の行在所にもなった。
鯉屋の西隣には脇本陣「輪違屋」があった。脇本陣は、大名や公家などの宿泊施設である本陣での宿泊が重なったときなどに利用された。本陣・脇本陣の軒数は時代によて異なるが、天保十四年(一八四三)の『東海道宿村大概帳』によると
赤坂宿の本陣は三軒、脇本陣は一軒で、脇本陣の建坪は百三十六坪余、門構・玄関はなかった。この頃の脇本陣は輪違屋市三郎が務めていたと思われる。元禄二年(一六八九)、三河国の幕府領の大半を支配していた赤坂代官所が、
正法寺と浄泉寺の間(元赤坂保育園)に移転した。慶応元年(一八六五)の町並図には鯉屋と脇本陣の間に東海道から代官所へ出入りするための通路が描かれており、大橋屋保存整備工事に合わせて復元した。豊川市教育委員会、とあります。

27)赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡石碑と東海道赤坂宿・御油宿案内図高札/跡地:高札の先、左手、道路西側

案内図には旧道沿いの13カ所の名所と、宮路山が紹介されています。宮路山は紅葉の名所だそうです、11カ所の名所は順に、1.御油の追分、2.御油の松並木資料館、3.東林寺、4.御油のマツ並木、5.関川神社、6.長福寺、7.宮道天神社、
8.浄泉寺、9.正法寺、10.音羽生涯学習会館、11.赤坂休憩所「よらまいかん」、12.赤坂宿公園、13.八幡社、赤坂の舞台。

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