東海道バーチャルトリップ
4)常夜燈と立札、豊川稲荷遥拝所石碑:左折し暫く歩くと、右手、徒歩68分、道路東側
豊川稲荷は豊橋の北に在ります。ガイドも東海道取材旅行で、豊川稲荷駅/名鉄の近くに泊った事が有ります。
此処には常夜燈と立札、頭の丸い遥拝所石碑が有りますが、立札は以前は有りませんでした。この立札の説明文には、
遥拝所と大鳥居について、江戸末期文久二年(一八六二)この頃になると豊川稲荷への参拝者が増加し豊川稲荷への道筋が分かりにくく行き過ぎたり早く曲がりすぎたりで道に迷う人が多く参拝者の利便と東海道を往来する
人々や信者への道案内として遥拝所と鳥居を東海道での最寄りの曲がり角とされていた下地と御津の二ケ所に有志信者の人々が力を合わせて目印の遥拝所と大鳥居が奉納されました。
遥拝所とは豊川稲荷にはお参り出来ずともこの場でお参りすれば同じご利益がもらえるものです。昭和五年までこの地に建てられていた大鳥居も豊川稲荷大本殿の完成を祝ったご開帳の時総門から入って最初の一の鳥居として
移転した高さ七・六メートル足まわり二・五メートルの大鳥居である。二の鳥居は御津の遥拝所に一の鳥居より九年ほど早い嘉永六年(一八五三)に建立されたものです。その鳥居も大本殿ご開帳の昭和五年に移転されました。
高さ七メートル足回り二・一メートルで一の鳥居よりやゝ小さい鳥居です。一の鳥居、二の鳥居とも昭和五年に移転されたが廃仏毀釈の影響などもあり一旦之を倒し境内に保管されていましたが、戦後再び復興され現在の状態に
なりました。稲荷世古観音講 午歳の男、とあります。ガイドも以前、見つからない大鳥居を探した事が有ります。(苦笑)
また常夜燈は道標となっており、正面には維時安政二龍次乙卯正月穀旦とあり、左側面には右御油道、裏面には左吉田道と彫られています。ですが、道標の方角がおかしい。
維持はこれときと読み、建年号だそうです。安政二年は1855年です。干支は乙卯(きのとう)ですから、これは合っています。穀旦(こくたん)は良い日、吉日の事だそうです。
5)真宗高田派聖霊山聖眼寺(しょうげんじ)(旧):遥拝所から少し歩き、右手、徒歩72分、道路東側
山門には聖霊山の額が飾られており、参道右手には親鸞聖人御舊跡石碑、参道左手には寺内芭蕉塚と彫られた古い石碑と松葉塚説明板。
説明板には、豊橋市指定史跡、松葉塚、3基、昭和59年2月24日指定、
聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石(しるべいし)があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。
「松葉(ご)を焚(たい)て手拭(てぬぐい)あふる寒(さむ)さ哉(かな)」古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国(とこく)の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中
当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。
再建松葉塚は、明和6年に上田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼いて手拭あふる寒さ哉」とあります。
「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有(やゆう)の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。
また、山門前の標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」とあります。豊橋市教育委員会、とあります。
前回来た時には山門を潜って、お寺に参拝をしました。しかし今回来てみると山門左側には、「撮影する場合は許可を取って下さい」という看板が置かれていました。何事も時節柄、です。(苦笑)
山門を潜ると参道先にはお堂があり、お堂の右側に立札、句碑、松葉塚ポスト。枯れた松葉は燃料に成ります。立札には、
芭蕉翁の句碑、こを焼て 手拭 あぶる 寒さ哉、昭和二十年戦災にあって句碑がいたんだため、拓本をとることを禁じます。聖眼寺、とあります。句碑の表面は既にツルツルでした。
6)下地(しもじ)一里塚跡石碑:寺からすぐ、右手、徒歩83分、道路東側
この石碑も車道側を向いています。かなり小さく、歩道側からは見落としそうです。この道標も他の道標と同様に、設置方針がおかしいです。
正面には下地一里塚跡、手前(右側面)には平成元年二月吉日、豊橋市教育委員会、奥(左側面)には江戸日本橋より七四里、とあります。そして此処が東海道74番目の、下地一里塚なのです。
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