東海道バーチャルトリップ

109)旧道の風景:坂を登ると、徒歩217分

漸く平たい場所に出ました。

110)血塚社(ちづかしゃ):坂の先、左手、徒歩218分、道路南側

石段五段を上ると境内で、その先に石灯籠一対、血塚社と記された額を飾る白い鳥居。鳥居を潜ると左手に手水、石段五段を上ると正面は祠で、その後ろに日本武尊御血塚石碑。
石碑の左には、背の低い山ノ神石碑も在ります。

111)東海道一〇一番目の采女一里塚跡立札:社の先、右手、道路北側

旧道の右手に同立札が建っています。この立札は、前回来た時には有りませんでした。立札の説明文には、
東海道と国道一号線が交差するこのあたりには江戸から一〇一番目の「采女の一里塚」があったといわれている。江戸幕府は慶長六年(一六〇一)に伝馬の制を定めて各街道に宿駅を置き、慶長九年(一六〇四)には東海道などの道幅を五間とし、
道中の目印として一里毎に高さ約三m、幅約九m四方の塚を設けて榎や松などを植えた。江戸日本橋を起点に京三条大橋まで一二六里、間には一二四の一里塚が置かれた。采女の一里塚は一〇一番目にあたり、松が植えられていたことが
天保の頃幕府が作成した「東海道宿村大概帳」に記されている。四日市市内には四カ所の一里塚が築かれていたがいずれも残っておらず、跡地には石碑が立てられている。なお一〇五番目の亀山市野村一里塚は現在も形が残り、
国指定の史跡となっている。采女一里塚は、戦後しばらく土盛りした上に木柱が建っていたが、昭和三十年代から四十年代にかけて行われた国道一号線の拡張工事で姿を消した。その後昭和六十二年(一九八七)、「郷土の文化遺産を後世に残そう」
という地元采女町の取り組みに、地元の企業が協力して敷地と費用を提供し、国道一号線を挟んだ反対側、約一〇〇m西のガソリンスタンド傍に石碑が建てられている、とあります。

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