東海道バーチャルトリップ
19)坂下宿〜鈴鹿峠説明板:小社の先、左手、徒歩36分、道路南側
説明板は前回来た時よりも、かなり汚れていました。説明板には坂下宿と片山神社が説明されています。説明板の左下には浮世絵が描かれており、『伊勢参宮名所図会』より、とあります。またその名前には、「鈴鹿山、鈴鹿権現社」とあります。
しかし何故か?、鹿の字は廉の字に、二番目の鈴の字は怜の字に似ています。ハテナ? Wikiの「片山神社(亀山市)」の頁には、
平安時代末期には『宝物集』に鈴鹿山の立烏帽子の名前が見られ、鈴鹿の地に伝えられる昔話では坂上田村麻呂が立烏帽子討伐を命じられたものの夫婦となり、二人が亡くなった後に鈴鹿峠の里の人々が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、
田村麻呂を田村堂に祀ったという。奈良絵本『すずか』には、鈴鹿の立烏帽子は鈴鹿の権現といわれ、東海道の守護神となって・・・、とあります。また説明板の説明文には、
坂下宿、坂下宿は、東海道を近江国(滋賀県)から鈴鹿峠を越えて伊勢国(三重県)に入った最初の宿場である。大永四年(一五二四)、連歌師宗長は「その夜は坂の下の旅宿」(『宗長手記』)とし、弘治三年(一五五七)四月と八月には山科言継が大竹屋
孫太郎宿に泊まっていること(『言継卿記』)などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。このあたりは「古町」と呼ばれ、慶安三年(一六五〇)九月の大洪水で宿場が壊滅するまで坂下宿のあった場所である。洪水後、坂下宿は
約一キロメートル東へ移転し、宿場集落として繁栄した。なお、洪水以前の寛永十四年(一六三七)に実施された『勢州鈴鹿郡坂下村検地帳』によれば、坂下村全体で寺社のほかに百十一軒の人家があったとされる。今も所どころに石垣が残り、往時の
面影が偲ばれる。
片山神社、片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁二年(一二九四)に現在の場所に移された(『片山神社縁起』)とされる。明治以前は「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」等と呼ばれ、『室町殿伊勢参宮記』(応永三十一、
一四二四)にも「鈴鹿姫と申す小社の前に」と記されている。東海道は、このあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く。平成二十四年三月亀山市、とあります。
つまり、八丁二十七曲りはこの辺りから始まっており、箱根峠とは違って鈴鹿峠の難所は後述する様に、現在では直ぐに終わります。(苦笑)
20)急な上りとS字カーブ:説明板の先
説明板からは急な上りが始まり、しかも旧道はSの字を描いています。
21)石垣:カーブの先、左手、徒歩38分、道路南側
旧道の左手には石垣が積まれています。説明板に有った、古町跡でしょう。写真右側には、堀を渡る小橋も見えています。
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