東海道バーチャルトリップ
151)竣工記念碑、竣工記念碑、蟹坂古戦場跡道標、蟹坂古戦場跡立札/蟹坂古戦場跡:アンダーパスの先、右手
古戦場跡には手前から順に、蟹坂地区圃場整備、竣工記念碑、蟹坂古戦場跡道標、蟹坂古戦場跡立札とベンチ(写真左外)が在ります。圃場とは、農地の総称の事です。立札の説明文には、
天文十一年(一五四二年)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を功めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制
を整え、北畠軍を背走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、
山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。平成七年三月、土山町教育委員会、とあります。
152)直進地点と鎮守の森
旧道は蟹坂古戦場先の十字路を直進します。正面に見えるのは、田村神社の鎮守の森です。
153)定高札と「高札の解説について」立札:古戦場の先、右手、徒歩241分、道路北側
橋の袂、旧道右手に定高札と、「高札の解説について」立札が建っています。立札の説明文には、
この高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。この田村川橋ができるまでは、この橋から約六百メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人が
多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて
新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。『この橋を渡ることのできるのは、安永四年(一七七五年)の閏月十二月の二十三日からである。(旧暦には閏月があり、この年は十二月が二回続く)この橋を渡る時、幕府の用で通行する
人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については一人につき三文、また
荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものではなく、橋があるかぎり永遠に続くものである。』と書かれています、とあります。
→(49)土山宿へ、海道橋迄徒歩1分