東海道バーチャルトリップ
64)鈴鹿国定公園協会道標/鈴鹿峠:交差点左手前、徒歩90分
交差点左手前に同道標が建っています。道標はかなり汚れていましたが、↑−三重県片山神社、↓−滋賀県土山町、鈴鹿峠、高畑山1時間20分→、とあります。写真左側の道は、坂下宿側の旧道です。
65)←鏡岩150M道標、登山用道標、高畑山登山口道標、鈴鹿峠説明板/鈴鹿峠:交差点左奥、同分
交差点左奥に手前から順に、鏡岩道標、登山用道標、登山口道標、同説明板が建っています。右側の道が土山宿側の旧道で、左側の道が鏡岩に通じる道です。
登山用道標はかなり傷んでいますが、3本の腕を持っています。左奥方向を指す腕には←田村神社跡10m、鏡岩150m、とあります。
坂下宿、東方向を指す腕には、←片山神社0.4km(0:08)、坂下1.7km(0:30)、土山宿、西方向を指す腕には、山女原4.1km(1:00)、安楽越6.5km(1:50)、石水渓9.3km(2:40)→、とあります。
鈴鹿峠説明板もかなり汚れていますが、右下には浮世絵が描かれており、『伊勢参宮名所図会』より、とあります。説明文には、
伊勢と近江の国境をなす標高三七八mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし、仁和二年(八八六)
近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波(あすは)道と称する新道が開かれ、同年斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。峠越えが開通して間もない昌泰元年
(八九八)、伊勢神宮へ下った勅使が山賊に襲われている。(『伊勢公卿勅使雑例』)。建久五年(一一九四)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に盗賊の鎮圧を命じていることや(『山中文書』)、『今昔物語集』の蜂を飼う水銀商人
が山賊を退治する説話、『太平記』の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。
『拾遺集』、思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく 村上天皇、世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ 斎宮女御、『新古今集』、鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらむ 西行、
このほか、峠頂上には磐座(いわくら)と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・鉄屋・
伊勢屋・井筒屋・堺屋・山ア屋の茶屋が建ち並び賑わっていた。現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。平成十九年三月 亀山市教育委員会、とあります。
三子山は峠の東に、高畑山は西に在ります。鈴鹿峠越えは険しいですが距離が短かった為、採用されたのでしょう。先人は良くこの経路を見付けてくれました。(笑)
66)鏡岩への経路:鈴鹿峠を左折すると
ガイドは鏡岩を見学する為、直進地点を左折します。左折すると、経路の左右に看板が在ります。左のそれは「登山愛好家のみなさまへ」看板で、杭は抜かれていました。
右の看板は注意!!看板で、その右側にはピンクの木の杭とプラスチックの杭が刺さっています。その先は自然木の階段です。
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