東海道バーチャルトリップ

97)知立の松並木説明板:合流の先、左側歩道、車道側、徒歩516分、道路南側

この説明板は更新されています。以前は「知立松並木」説明板でした。良い機会なので、二枚の説明板を比較してみる事にします。
(以前)知立松並木、市指定文化財(名勝)、昭和四十四年四月一日指定、
慶長九年(一六〇四)江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅七m、約五百mにわたり凡そ百七十本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を
繋ぐためとも推定されている。また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝二年(七〇二)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾(ひくまのじ) 仁保布榛原(にほふはりはら) 入乱 衣爾保波勢多鼻能(ころもごほわせたびの)
知師爾(しるに) 長忌寸奥麻呂(ながのいみきおくまろ?)」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。知立市教育委員会、とあります。

(今回)知立の松並木、愛知県指定天然記念物、令和五年八月四日指定、山町及び牛田町のうち、御林交差点から新田北交差点に至る約五〇〇mのあいだに近世東海道を挟んで一六五本の松が生息し、江戸時代の街道を偲ばせる景観を
構成している。この松並木は、織田信長による分国内街道整備の一環で、天正三年(一五七五)、八橋を経由する中世東海道(鎌倉街道)が現在地を通る新街道(のちの近世東海道)に付け替えられた際に植えられたことがはじまりとみなせる。
その後、江戸幕府は街道整備にあたり、度々並木の植樹や捕植・保全を命じており、幕末まで道中奉行の管轄下で維持管理されていった。なお江戸時代後期には、国学者渡辺政香が、「並松いさぎよく生い繁り、道の広さ十尋あまりも増て、
小石もなく、いとなだらかにして、並松のながめ東海道の内に、是に及ぶながめはあらじ」と絶賛するほどの景観であった(「浪華遊藁」)。明治時代以降、様々な事情により松は徐々に減少し、戦争や伊勢湾台風で大きな被害を受けた結果、
昭和四十二年(一九六七)時点には、五一本(北側二六本、南側二五本)まで本数を減らした。しかし、この状況を憂慮した住民有志が保存活動を起こし、知立町もそれに応えて排水管埋設や捕植などの保存環境整備を相次いで実施していった。
現在、より一層の保存と活用を図るため、定期的な毎木調査や遺伝子解析調査などの取り組みを行っている。知立市教育委員会、とあります。

流石に今回、現代の方が科学的です。ですが相手は学者ではなく観光客ですから、歴史のロマンを感じさせるのも観光のテクニックであるとは思います。道幅が広かったのは、馬のお陰でした。(笑)

98)馬市句碑と万葉歌碑:説明板の先、左側歩道、反対側、同分、道路南側

左の石碑が万葉の歌碑で、右の石碑が馬市句碑です。両者の石碑の間には、説明石板が有ります。その説明文には、
馬市句碑、かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく、蝶つばめ 馬市たてしあととめて、俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。
万葉の歌碑、引馬野に、にほふはりはら、いりみだれ、衣にほはせ たびのしるしに、この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えらえている、とあります。

99)保永堂版『東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』、歌川広重 天保3〜4年(1832〜1833)頃版画:碑の先、左側歩道、反対側、徒歩518分、道路南側

浮世絵では、田の中に馬が多数描かれています。その下の説明文には、
歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。鎌倉時代の初期に書かれた『海道記』「雉鯉鮒が馬場を過て・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。また、江戸時代
の浅井了意の『東海道名所記』、梅月堂宣阿『富士一覧記』、井原西鶴『一目玉鉾』、秋里籬島『東海道名所図会』等に、馬市の盛大な様子が述べられている。これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、
その数は4〜500にもおよんだ。馬を売買する人はもとよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった、とあります。

→次の頁