東海道バーチャルトリップ

40)明治天皇御駐蹕之所石碑:小橋の先、左手、徒歩299分、道路南側

小橋を渡ると、旧道左手に在ります。石碑正面には明治天皇御駐蹕之所、愛知縣知事田中廣太郎謹書、右側面には紀元二千六百年記念昭和十五年二月建之 矢・・・、左側面には日本陣藤屋事高井善兵衛方は明治元年九月二十・・・、
と有りますが、下の方は植木に隠れて読めません。展示するのであれば、もう少し神経を通わせましょう。(苦笑)

41)雲竜の松/永安寺:石碑の先、右手、徒歩304分、道路北側

松の手前に黒くくすんだ立札と県指定天然記念物永安寺の雲竜の松説明板、その先は山門です。この説明板は更新されています。前回来た時には写真は無く、白い板に説明文が記入された簡素なものでした。

説明板の右上には雲竜の松(本堂前より)写真が、その下には境内図とマツの寸法、幹周囲4.4m、樹高4.8m、枝張り東西17.9m、南北24.7m、樹齢推定350年、が示されています。また説明文には、
永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。大浜茶屋村の庄屋であった柴田助太夫(しばたすけだゆう)は、街道の宿場駅へ必要に応じて人馬を提供する助郷役を村が命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たと伝えられます。
領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。村では、領主の代替わりごとに、この助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、
彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山永安寺」と名づけられました。一般的に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは
高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びています。この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれています。樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます。
郷土の文化財を大切にしましょう 安城市教育委員会、とあります。

くすんだ立札の方は前回来た時の写真を参考にすると、「永安寺の雲竜の松」と読めます。

42)曹洞宗本然山永安寺:松の先、同分、道路北側

石柱を潜ると山門で、山門の左側にはポールと厄除子安地蔵尊。山門左手前に禅宗永安寺寺碑、右手前に逓役罷免功労者柴田助太夫終焉地石碑。

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