東海道バーチャルトリップ

16)古い道標?:右折の先、右手、徒歩53分、道路北側

右手に古い石碑が有ります。字がまるで読めないが、どうやら道標の様です。

17)左折地点とほうろく地蔵尊/突当丁字路:道標?の先、左手、道路南側

旧道は此処を左折します。交差点の正面には、ほうろく地蔵尊が有ります。地蔵の頭上と右側の壁に、ほうろく地蔵説明板が貼られています。説明文には、「尾張名所図会(天保十二年脱稿)」によれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現知立市)
にあったが、野原の中に倒れ、捨石のようになっていた。ところが、三河より焙烙(ほうろく)を売りに尾張へ来るものが、荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売りつくした後、石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人が
この石仏を発見し、安置しようとしたが、動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、皆が不思議なことだと思い、その台石を掘り出し、この石仏を置いたのが、すなわちこの地蔵である、
とあります。

18)道標と道標立札、源太夫社(上知我麻神社)と東海道案内板とVRで復元東海道の様子案内板/突当丁子路:交差点右手前、徒歩54分、道路北側

江戸方から順に、道標、同立札、熱田区まちかど発見!、源太夫社(上知我麻神社)と東海道案内板、VRで復元東海道の様子案内板(写真左外)が在ります。2枚の案内板は、以前は有りませんでした。道標の立札の説明文には、
ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地域であった。この道標は、建立当時(一七九〇年)より三叉路東南隅にあったが、平成二十七年に現在の地に移設した。四面には、次のように刻まれている。
東、北さやつしま、同みのち道、南、寛政庚戌(かのえいぬ)年、西、東江戸かいとう、北なこやきそ道、北、南京いせ七里の渡し、是より北あつた御本社弐丁道、なお、この三叉路の東北隅には、これより三二年前(宝暦八年)に建立された道標があった。
標示は、「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。戦災で破損したが復元され、十mほど東側にある。名古屋市教育委員会、とあります。
念の為道標を確認してみると、南寛政・・・、西(読めず)、東(文字は二列)、北南京いせ七里・・・、・・・あつた、とその様です。(笑)

まちかど発見!案内板には3枚の絵とその下に説明文があり、3枚の絵は左から順に、尾張名所図会「源太夫社(上知我麻神社)」提供:名古屋都市センター、明治時代の様子提供:鶴舞中央図書館、周辺図です。
周辺図には東海道、旧:ほうろく地蔵(現在は移転して無)、現在地、道標(東北隅)、熱田神宮、源太夫社(現:ほうろく地蔵)、道標(東南隅)、七里の渡し、が紹介されています。説明文には、
尾張名所図絵にも描かれている江戸時代の「上知我麻(かみちかま)神社」。熱田神宮の摂社で、江戸時代には「源太夫(げんだゆう)社」とも呼ばれ「智恵の文殊」様としても知られています。江戸時代のここ「源太夫社」前は、東海道と美濃路の分岐点
ともなり、往来する多くの人々でにぎわっていました。・北へ行くと「熱田神宮・名古屋城下」、・南へ行くと「七里の渡し(桑名)」へ至ります。「源太夫社」は、戦後の復興事業のため、昭和24年に熱田神宮境内に遷座され、その後、現在の地には、別の地
にあった「ほうろく地蔵」が祀られました。場所を変えながらも当時から残る「道標」が、在りし日のにぎわいを今に伝えています。熱田区役所、とあります。

東海道の様子案内板の方は、サブタイトルになごや昔カメラ、とあります。案内板の左側は説明文、右側はなごや歴史探偵アプリをダウンロード!、愛知県名古屋市の歴史に触れたり、文化遺産や観光スポットなどの情報を知ることができる名古屋市
観光案内アプリです。ダウンロードはこちら→2次元コード、とあります。ちなみに、歴史探偵はNHKの番組名です。(笑)説明文には、
江戸時代、この場所は東海道と美濃路(佐屋路)の分岐点でした。当時ここには「宮宿」という宿場町があり、熱田神宮の門前町であることや、桑名宿に渡るための宮の渡し(七里の渡し)もあったことから、東海道随一と言われる賑わいがありました。
下の二次元コードをスマートフォンで読み取ると、VR(バーチャルリアリティ)で再現された江戸時代のこの場所の賑わいをご覧いただくことができます、とあります。便利な世の中に成ったものです。(笑)

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