東海道バーチャルトリップ
7)栽断橋跡立札、地蔵、栽断橋址石碑、旧栽断橋桁石と同立札、栽断橋石柵、橋のモニュメント/姥堂(旧):
写真は前回撮ったそれです。栽断橋跡立札の説明文には、宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。天正十八年(一五九〇)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、
その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、
母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。現在は栽断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存にされている。名古屋市教育委員会、とありますが、にの字が余分です。(笑)
地蔵は赤い前掛けを掛け帽子を被っており、その右には石の器(手水?)も置かれていました。また石碑の左側面には小さな文字で、元和八年堀尾吉晴妻・・・、修造此橋大正十五年精進・・・、とあります。この栽断橋はWikiのページにも有ります。
桁石とは、文字通り橋桁の石です。四角い断面で、長さが有ります。中央付近にホゾが明けられています。此処に別の建材が嵌るのでしょう。石は圧縮には強いのですが引張りには弱い為、圧縮応力をかけ続けるアーチ構造などが必要と成ります。
モニュメント左側親柱の字は達筆過ぎて、ガイドには読めません。(苦笑)
8)橋のモニュメント、姥堂石柵、石灯籠、都々逸発祥之地石碑、姥堂、裁断橋説明板/姥堂(旧):
写真は前回撮ったそれです。モニュメント右側親柱には、栽断橋と彫られています。都々逸とは寄席や座敷などで歌われていた恋愛を対象とした俗曲で、伴奏は三味線です。芸人や芸者のオハコで、定型は七七七五調です。
説明板の説明文には、姥堂、延文三年九月(一三五八)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれて
あった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡
に歌われるほどである。尊容から奪衣婆(だつえば)と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として
信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。
栽断橋、文献では永正六年(一五〇九)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立てられ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。
大正十五年出版の「橋と塔」は未だ青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、
後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」
と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成五年五月此地に仮設した、とあります。大正初年頃の姥堂と栽断橋の写真も、掲載されています。
9)熱田宮まち観光ルートタイル道標/姥堂:左側歩道
このタイル道標は前回来た時にも有りましたが、造りが荒くまるで役に立ちませんでした。(意味不明です)
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