東海道バーチャルトリップ
19)橋本橋:マンホールから少し歩き、徒歩150分
旧道は右にカーブしながら、同橋を渡ります。
20)旅人の息づかいが残る町朝日町高札/橋本橋:橋の先、袂左奥、道路南側
橋の袂左奥に、同高札が建っています。高札左側には周辺案内図が描かれており、旧道を中心とした名所が記載されています。また右側には、その説明文も記されています。右下には、東海道分間絵図に描かれた朝日町と、その説明も為されています。
説明文には、三重県の北部に位置する朝日町は、明治22年(1889)に縄生村、小向村、柿村、埋縄村の4村の合併によって「朝日村」となり、昭和29年(1954)に「朝日町」と改められました。町名の由来は、大海人皇子(のちの天武天皇)
が672年に起きた壬申の乱の際、この地から朝日を望んだとの故事にちなんだもの。江戸時代までは東海道を中心に町並みが形成され、近年は、企業の進出や宅地開発によって大きく発展してきました。5.99km^2と小さな面積の町ながら、
徳川家ゆかりの桑名藩主の奥方の菩提寺であったと伝えられる「浄泉坊」をはじめ、当時の面影を残す推定樹齢300年の榎、多賀神社常夜燈など、歴史を振り返る上で重要な遺跡が点在しています。
@多賀神社常夜燈、弘化3年(1846)、滋賀県の多賀神社から勧請して祀られた神社前に建立。現在、神社は井後神社境内に合祀され、常夜燈だけが残る。元々は東海道沿いにあったが、道路改修などで移設され現在の位置にあり、東海道を行き交う人々を
見守っている。A西光寺【さいこうじ】もとは天台宗であったが、明応5年(1496)蓮如上人に帰依し、浄土真宗本願寺派となり、貞享2年(1685)に真宗大谷派に転じる。現在の建物は明治10年〜明治23年(1877〜1890)に建立された。
B浄泉坊【じょうせんぼう】浄土真宗本願寺派。徳川家ゆかりの桑名藩主の奥方の菩提寺といわれ、参勤交代の大名はこの門前では駕籠から降り黙礼したという伝承が残っている。C朝日小学校円形校舎、昭和37年(1962)に建設された4階建ての
円形校舎。円形建築で有名な坂本鹿名夫(かなお)氏による最盛期の建築であり、平成25年(2013)に国の登録有形文化財となった。D朝日町資料館(旧朝日村役場)、大正5年(1916)に村役場庁舎として建設された木造2階
寄棟造瓦葺き建物。平成12年(2000)に地方役場庁舎建築の特徴をよく伝えている建築物として国の登録有形文化財となった。現在は大正、昭和時代の民具などを展示する資料館として開館。
E榎、推定樹齢300年。東海道沿いに植えられた松並木の中に、紛れて植えた雑木といわれる。松並木は太平洋戦争末期に松根由の採取や、その後の虫害により枯れてしまったが、この榎だけが当時の面影を残している。F一里塚跡、一里塚は
慶長6年(1601)に定められた東海道宿駅制度によって、設けられた。ここは、桑名の七里の渡し、西富田の庚申橋から一里の地点にあたる。G山口誓子歌碑、歌碑には山口誓子の筆跡で刻まれている。露けさよ 祷りの指を 唇に触れ、誓子。
H真光寺【しんこうじ】浄土真宗本願寺派。大同2年(807)、最澄が天神山の北お坊ヵ谷に一寺を建立して天台精舎とし、真光寺と号したことが当時の建立といわれている。I金光寺【こんこうじ】寛政年間(1789〜1800)に類焼し、
3年後に現在地に再建されたと伝えられる。明治3年(1870)当時の住職、浄海を最後に無住となり、現在は本堂1棟が残されている。
東海道分間絵図に描かれた朝日町、江戸時代の東海道は、熱田から海を渡って再び陸路に戻り、桑名宿から四日市宿、京都方面へと続いていました。桑名宿と四日市宿のあいだには、朝日町の前身である縄生村、小向村、柿村の3村が位置していて、
村の中心を通る東海道は江戸と京都を往来する人たちで賑わっていたもよう。道の両脇には旅人が休憩するための茶屋のほか、焼き蛤を販売する店などもあたっと伝えられています、とあります。
高札の先右手には、何やら古めかしい十一面観世音菩薩石碑も在りますが、何処のお寺のそれでしょうか?
21)古い句碑/タバコ屋:高札の先、左手、徒歩153分、道路南側
旧道左手タバコ屋の前に、古い句碑が置かれています。写真は四日市宿側から撮っています。山口誓子の句で、露けさよ 祷りの指を 唇に触れ、とあります。誓子は明治の俳人です。
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