東海道バーチャルトリップ

100)堀切橋/小川:左折からすぐ、徒歩287分

此処で旧道は小橋を渡ります。橋の右手前の親柱には堀切橋、左手前のそれは読めません。右奥のそれには昭和三十・・・、左奥のそれには堀切橋、とあります。先の国道1号線の側歩道橋もほりきりはしでしたから、どちらかの名称は変更されるのでしょう。

101)直進地点/志〇(氏+一)神社(しでじんじゃ)参道、ト字路:橋の先

旧道右手に、志〇神社の参道が在ります。桑名宿側から順に、石灯籠二基、立札、二つの道標、縣社志〇神社社碑、延喜式内郷社志〇神社社碑、太い注連縄、三房付の石鳥居です。鳥居の下には車の通行を妨げる為の大石が置かれています。
右の石灯籠の胴には常夜燈、台座には五穀成就と彫られています。左の石灯籠の胴には天下泰平、八幡宮御神前、国家安全、と彫られています。志〇神社一の鳥居立札の説明文には、この鳥居は、志〇神社の東海道からの参道(宮道)入り口を
示すものとして建てられました。刻印によると享保18年(1733)に建立されたものです。東海道は昔から都と東国を結ぶ街道として存在していましたが、現在、一般に東海道として認識されているルートが確定したのは江戸時代に五街道が整備された
以降です。古代にはもっと内陸部を通っていたと言われています。しかし、鳥居の前にある夫婦石が朝明郡と三重郡の境界石とする伝承(江戸時代の境界とは異なる)もあることから、遅くとも赤堀氏が羽津城を築城した応永年間(1394〜1428)
には既に現在のルートになっていた筈です。宮道も東海道の整備に合わせて作られたものと考えられています。

鳥居の右手には二基の石灯籠があります。北側の一基は文政元年(1818)寅五月に建てられた皇大神宮への献灯で、台座には五穀成就の文字と当時の羽津五村(羽津村、吉澤村、別名村、鵤村、八幡村)の村名と願主世話人森玄〇(イ+全)(山の医者)、
森玄隆(町の医者)、藤谷傳左衛門(羽津村庄屋)、森七兵衛(肝煎)、及び世話人伊藤長右衛門(別名村)、相松平六(鵤村)、久志本又左衛門(八幡村)の各村庄屋の名が刻まれています。南側の一基は八幡宮御神前、天下泰平、国家安全と刻まれており、
元々、八幡神社にあったものが明治41年(1908)に八幡神社が志〇神社に合祀された後に移設されたものです。天保11年(1840)庚子正月に創建されたもので、発起人は地元の人ではなく、当時の八幡信仰を反映して尾張、美濃の米穀商六人の
名が刻まれています。

石灯籠のある場所は、江戸時代には高札場(幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札を掲示した施設)があり村の中心だったところです。この北側には幕末最後の庄屋伊藤伝十郎の屋敷があり、明治になってからは最初の戸長役場が置かれました。
しかし、明治9年(1876)の伊勢暴動の際に、襲来した暴徒により屋敷、古記録等悉く焼失しました。その後、明治14年(1881)にはこの地の一角に羽津小学校の前身である額田学校の校舎、通称ちょんぼり校舎が建てられました。羽津地区
まちづくり推進協議会、四日市市羽津地区市民センター、とあります。

縣社とは明治時代に決められた社格で、国弊社の下、郷社の上、だそうです。また延喜式内とはこれも社格で、延喜式が成立したのは10世紀初頭です。全国で2861社だそうです。ですから両社碑は、建てられた時代が異なるのでしょう。
道標は上から順に、志〇神社→350m道標、←東海道→道標です。内容は他とほぼ同様です。

102)左折地点/変形十字路:参道から少し歩き、左手、徒歩295分、道路南側

奥の道と右の道の道幅が狭い、変形十字路です。旧道は此処を左折します。この先旧道の右手には、初野山攝護殿光明寺(はつのざんしょうごでんこうみょうじ)立札、森多三郎(もりたさぶろう)記念碑立札などが有ります。

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