東海道バーチャルトリップ
31)天台真盛宗延寿山地蔵院遍照寺:右曲りの先、左手、徒歩42分、道路南側
参道右手手前から順に、遍照寺の文化財説明板、寺碑、僧の石像、地蔵、千手観音石仏、その先は山門です。説明板の説明文には、
遍照寺は、少なくとも十七世紀初頭には所在していることがうかがえるものの、その開基や由来は明らかではない。しかしながら、寺に伝来する数多くの文化財からは古くからこの地に所在したことが想定できる。
<県指定文化財>、〇木造阿弥陀如来立像、県指定平成十一年三月十七日、来迎印を結ぶ三尺の阿弥陀如来立像で、像高は九九・一センチ。端麗に整えられた衣文は快慶晩年の作風を継ぐものであるが、大衣のへりの渦文、目尻の切れ上った
やや強い表情や張りの強い面相、やや太目の衣文などから、木像の制作年代は十三世紀第二四半期頃(鎌倉中期)とみられ、快慶の弟子の中でも個性的な行快の作風に極めて近い像として注目される。
〇木造観音菩薩坐像・木造勢至菩薩立像、県指定平成十四年三月十八日、本尊の阿弥陀如来立像の両脇侍として須弥壇上に安置される菩薩像である。像高は観音菩薩坐像三〇・八センチ。勢至菩薩立像四五・六センチの小像で、規模・作風から
現在の中尊とは当初から三尊形式をなすものではないと考えられる。観音菩薩坐像は左膝を立てた跪坐像で頭部内面に残る墨書銘から、鎌倉時代中期、建長四年(一二五二)、院派の仏師によってつくられたことが確認された。また、勢至菩薩立像
も胎内墨書銘から同年に院春によってつくられたことが確認されている。阿弥陀如来来迎に伴い飛来する菩薩を坐像(観音)と立像(勢至)に構成した、彫刻による来迎形式として稀な作例で、鎌倉中期に新時代の傾向を摂取しつつあった院派中枢仏師
の作風をうかがい得る基準作例として注目される。
<市史跡>〇大月関平墓、江戸時代後期の武芸者、鹿島新当流第十一代家元(墓地右奥)、<未指定>〇木造地蔵菩薩立像、平安時代前期の一木造り。造高一五五センチ。
〇本堂、旧亀山城二之丸御殿の式台・書院を移築したもの、平成十五年十月、亀山市教育委員会、とあります。
同宗は戦後天台宗から独立しました。真盛上人は伊勢出身です。
寺碑の正面には、天台真盛宗延寿山地蔵院遍照寺、左側面には、総本山西教寺貫首真良書、とあります。貫首は、一宗や大寺院を統括する最高責任者の事です。真良はしんらまたはささらと読むそうです。
32)亀山第一ホテル/遍照寺(旧):境内の左方、同分
ガイドはこのホテルには、取材旅行でお世話に成りました。写真からは、東海道が高台を走っているのが良く分かります。
33)右曲り:寺を罷ると、右手、道路北側
つづら折れです。
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