東海道バーチャルトリップ
70)双筆五十三次袋井版画高札:神社の先、左手、道路南側
説明文と版画二つが描かれています。説明文には、
初代歌川広重が得意とした低視線の風景画を背景に、三代歌川豊国が巡礼に向かう母子を描いています。二人とも抜け参りなのでしょうか、
旅の途中、金品を無心する柄杓を持ち、母親は管笠に「同行二人」「繁栄村」と墨書し、着物の上にうわっぱりを着て、「(西国)三十三番巡禮」と記されたおいずりを羽おっています。
東海道は、武士や商人、役人、僧侶のほか、伊勢参りをはじめ多くの巡礼者の通る道でもありました、とあります。
ガイドが多少補足すると、双筆とは文字通り、豊国と広重の合作、「豊国にかほ、国芳むしゃ、広重めいしょ」と謳われた、抜け参りとは親や主人の許しを受けないで家出し、往来手形なし!で伊勢参りすること、
同行二人とは、弘法大師と共に巡礼する事(〜四国遍路)、右の浮世絵は東海道名所膝栗毛画帳(1918)、左のそれが双筆五十三次袋井、です。
71)東海道松並木説明板高札:高札の先、右手、徒歩327分、道路北側
説明文と、行書東海道五十三次之内 袋井」版画が掲載されています。この説明文はかなりの力作なので、少々長めですが全文掲載します。
主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字(てんぴょうほうじ)三年(七五九)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。『信長公記』には
天正三年(一五七六)に織田信長が「魯篇の左右に松と柳植え置く」と記され、慶長九年(一六〇四)には徳川秀忠が「諸国街道一里毎に候塚を築かしめられ、街道の左右に松を植えしめらる」と、
一里塚と一緒に松並木を整備したことが『徳川実紀』に記されています。江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を減らしてしまいましたが、
現在地より東側には松並木が良く残り、江戸時代の面影を今に伝えています。また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と呼ばれる道です。
入口には文政十一年(一八二八)に再建された油山寺道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。
72)二つの道標:高札の先、右手、徒歩328分、道路北側
参道入口には左右二つの道標が在ります。右側のそれが「従是油山道」で、左側のそれが「是より一の睡三尺坊道」です。可睡斎の名はあの徳川家康に由来しています。Wikiによれば、
可睡斎の第11代住職仙隣等膳は小僧時代に臨済寺で家康の教育を受持った事があり、後に浜松城主となった家康はその時の恩を忘れず、城に招いた。
話の最中に和尚は居眠りを始めたが家康は叱らず、可睡和尚を名を授けた、とあります。曹洞宗の仏教寺院、萬松山(ばんしょうざん)可睡斎は油山寺の西に在ります。
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