東海道バーチャルトリップ

(37.5)藤川宿−岡崎宿
1)十王堂/十字路:小学校の先、交差点左奥、徒歩45分、道路南側

此処には十王堂と芭蕉句碑が有ります。十王堂の建屋は以前来た時のそれとは異なっています。ですから、最近再建されたのでしょう。お堂の左手前には藤川の十王堂立札が建っています。立札の説明文には、
「十王堂」は、十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは、冥土(死者のたましいの行くところ)にいて、亡者(死んだ人)の罪を裁く十人の判官をいう。秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宗帝王(そうていおう)、
五官王(ごかんおう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんしょうおう)、平等王(びょうどうおう)、太山王(たいざんおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)、
藤川宿の「十王堂」はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(一七一〇)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。また地元では、忠臣蔵で有名な神崎与五郎に
言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。藤川宿まちづくり研究会、とあります。立札の説明文は前回と同じなので、場所が移動しただけの様です。

お堂の壁には、景観重要建造物、十王堂、岡崎市看板と、その下に歴史的風致形成建造物、十王堂看板が有ります。下の看板の説明文には、堂内の中央には地蔵菩薩、その両脇には人間の死後、極楽に行くか地獄に堕ちるかを裁く、
閻魔王をはじめとする十人の王が祀られ、地元の人は「十王さん」と親しみを込めて呼んでいる。堂の創建は、江戸時代中期の元禄年間(1688〜1704)頃と伝えられているが、この建物は昭和12年(1937)に撮られた写真を基に、
平成29年(2017)12月に復原されたものである。指定第1号平成29年6月1日岡崎市、とあります。やはり最近復原されていました。(笑)

2)芭蕉句碑:十王堂の先、左手、同分、道路南側

芭蕉句碑(ばしょうくひ)立札と同句碑2つが有ります。立札の説明文には、
「芭蕉句碑」は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を、石を刻んで建てたものである。「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた はせを」碑の裏に「寛政五歳次癸丑冬十月、当国雪門月亭其雄弁連中、以高隆山川之石再建」
と、建碑の書誌的事項が彫られている。この碑の高さは一・六五メートル、幅一・〇七メートル、厚さ約〇・二メートル。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。その傍らに、高さ〇・九メートル、幅〇・五メートル
ほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑は元、別な所にあったが、大正初期に現在地に移された。藤川宿まちづくり研究会、とあります。
何故此処でむらさき麦とカキツバタが一緒に出て来るのでしょうか? 実はこのカキツバタは愛知県の県花なのです。在原業平/伊勢物語が三河国八橋(〜知立)で、歌を詠みました。

3)藤川宿の一里塚(ふじかわしゅくのいちりづか)立札:句碑から少し歩くと、左手民家の前、徒歩60分、道路南側

此処には藤川宿の一里塚立札が有ります。そして此処が東海道79番目の、藤川一里塚なのです。立札の説明文には、
「一里塚」は、街道の一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて、道しるべとした塚のことである。慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。
樹木は、普通、榎であった。ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると、「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所、壱ヶ所 木立 左無之 右 榎、但、左右之塚共 藤川宿地内」と記してある。このような藤川の一里塚は、当初は街道の
左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(一八三〇〜)頃には南側はすでになくなり、北側の榎は昭和初期には枯れてなくなってしまった。藤川宿まちづくり研究会、とあります。

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