東海道バーチャルトリップ

28)本陣跡/藤川宿本陣跡広場:銭屋の先、右手、徒歩31分、道路北側

冠木門の右側に本陣跡石碑、左側に高札場模型が有ります。高札場には計6枚の高札が掲げられ、門の先には石のタイルが敷かれており、中は公園に成っています。前回来た時には、冠木門や高札場は黄金色をしていました。(笑)

29)高札場説明板高札/広場:門を潜ると、左側

説明板の左側には高札場の説明図が示されています。右側の説明文には、
高札場には、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などに掲げ、民衆に周知させるための場所として設置されていました。宿場にも設置され、各宿間の距離を測定する基点ともされていました。
代表的な高札としては、寛文元年(一六六一)や正徳元年(一七一一)のものが挙げられます。藤川宿の高札は六枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。その内容は、
@「藤川よりの駄賃並人足賃」、A「駄賃並人足荷物次第」、B「親子兄弟夫婦みな親しく」、C「切支丹禁制」、D「毒薬にせ薬種売買の事禁制」、E「火付け用心」、これらの文面は、民衆への周知のために、簡易な仮名交じり文や仮名文が
用いられました。多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字の墨入れにも許可が必要でした。そのため、幕府や藩により「高札番」という役職が設けられ、厳しく管理を行っていました。
藤川宿の高札場は、問屋場の東に設置されていましたが、本陣跡広場の整備に伴い、ここに復元されました。岡崎市教育委員会、とあります。

また高札の掲載順は右上から左下に向けて、A、@、C、B、E、D、の順です。

30)水道の蛇口、本陣跡説明板高札、井戸、東屋/広場:高札の先、左側

左側の壁に沿って入口側から順に水道の蛇口〜東屋が立並んでいます。高札の左側には「藤川宿本陣(森川家)平面図」が描かれており、右側の説明文には、
宿場には様々な施設がありました。中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠屋、茶屋などの休泊施設と、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場でした。
本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅をする幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行客は旅籠屋、茶屋などに休泊しました。藤川宿には当初二軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣の役割を果たして
いました。しかし、藤川宿は東海道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行客は少なく、本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。そのため、本陣、脇本陣の経営者は退転と交代を
繰り返しました。
本陣は現在の藤川駐在所等の隣地を含めた長方形の土地に建っていました。本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。井戸は二か所あり、中庭に面した座敷がありました。北側の畑を囲っていた
石垣は現在も残されており、北の山々を望む眺望は江戸時代のままです。本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。明治に入り、廃藩置県が行われ、本陣と脇本陣はその役目を
終えました。その際に本陣を営んでいたのは森川家でした。平成二一年、その御子孫である森川武氏から、岡崎市へ土地が寄附され、平成二六年に藤川宿本陣跡広場として整備されました。また、西側にある脇本陣跡には石垣や享保四年
(一七一九)に建築された門が残っており、岡崎市の史跡に指定されています。現在は藤川宿資料館が建ち、藤川宿に関わる資料が展示されています。岡崎市教育委員会、とあります。

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