東海道バーチャルトリップ

37)是より西 本宿村、藤川宿へ壱里説明板:石碑の先、左手、徒歩147分、道路西側

説明板の左下には、東海道を中心とした絵図が描かれています。説明文には、
本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並が形成された。鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り、鉢地から宮路山中へと続いていた。
近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。享和二年(一八〇二)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十軒、村内往還十九丁余、立場茶屋
二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。
本宿は古くから麻縄(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康公が食したといわれる当地独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。
往還南に大宝元年(七〇一)僧行基開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康公幼少の頃のゆかりの寺として近世を通して下馬の寺であり、往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。
その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜燈などが往還筋に設置されていた。慶応四年(一八七四)の額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。

ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋二、茶屋七、当時の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南は鉢地(ほっち)村道、北は衣文(そぶみ)山道である。
鉢地村道は、鉢地川に沿って南へ進み、山越えをして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。近代に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流に欠かせない道となった。
また、竹島弁財天詣での信仰の道でもあった。衣文山道は、往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。
一九九四年九月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会、郷土史本宿研究会、とあります。ひさごとは、瓢箪(ひょうたん)の事です。

38)冠木門:説明板の先、左手、徒歩148分、道路西側

冠木門の左手前と右奥には、石灯籠が1つずつ有ります。

39)側道合流地点:冠木門の先、左手、徒歩149分、道路西側

此処で公園が終了し、旧道のルートは左の側道へと変わります。右側は国道1号線です。ガイドは用心をして、側道の左側歩道を歩きます。

→次の頁